1986-04-10 第104回国会 衆議院 社会労働委員会 第11号
この場所は、先生御案内のとおり、麻生吉隈炭鉱の会社の墓地で、大正十四年ころから従業員、その家族の墓地として設けられたものでございまして、三十五年に墓地、埋葬等に関する法律の手続に従いましてこの遺骨を掘りまして、麻生鉱業が新たにつくりました納骨堂にすべて納めたということになっております。
この場所は、先生御案内のとおり、麻生吉隈炭鉱の会社の墓地で、大正十四年ころから従業員、その家族の墓地として設けられたものでございまして、三十五年に墓地、埋葬等に関する法律の手続に従いましてこの遺骨を掘りまして、麻生鉱業が新たにつくりました納骨堂にすべて納めたということになっております。
その一つは、この問題の地域でございますが、大正四年の七月十一日から麻生吉隈炭鉱の従業員の墓地として使われていたという事実。現在、この地域は桂川町が寄付を受けて桂川町有地となっているわけでございますが、昭和三十四年から昭和三十六年ごろ、墓地の周辺を整地作業をするということから発掘調査が行われたわけです。ところが、人骨がたくさん出てきたわけでございます。
○多賀谷委員 ぼくは年々賠償についてもおそらく復旧がいま予想される明治にしてもあるいは麻生の吉隈炭鉱にしても何十億という鉱害がある。そうしますと、それは五年や六年で復旧ができない。ましてや平山炭鉱はさらに操業を続けるというならば、不安定鉱害期間というものは相当長い期間になる。そこで年々賠償の支給しなければならぬ年次がかなり要るわけですね。
○中島政府委員 麻生鉱業の中で吉隈炭鉱と缶下炭鉱と二つございますが、吉隈炭鉱におきまして運搬設備の改善のために六千七百万円、缶下炭鉱の選炭設備の新設のために千三百万円、こういう内訳になつております。